勉強を楽しいと感じることができるか

勉強の本質

 もし「勉強は楽しいですか?」と学生に質問したら、「楽しいです」と答える人は少ないのではないでしょうか。なぜ勉強をしないといけないのか、誰もが考えるこの疑問に対して、作家の森博嗣氏は著書「勉強の価値」の中で次のような分かりやすい説明をしています。
 彼は、勉強を「金づちで釘を打つ」という行為に例えています。以下に、要点をいくつか抜粋してみます。

 もし、釘を打つこと自体が楽しいという人がいれば、それはそれで幸せだが、普通は釘を打つ目的が他にある(例えば犬小屋を作るとか)。まだ作りたいものがない人、作る目的がない人に、釘の打ち方を教えるとしたら、どうだろうか?それを教わる人は、いったい何が楽しいのか、まったく分からない。非常につまらないと感じるだろう。もっと楽しいことがたくさんあるのに、どうしてこんなことをしなければならないのか、と考えるはずだ。
 釘打ちを学ぶことが楽しく感じられる唯一のケースは、作りたいものが目の前にある場合である。作りたいものとは、「作りましょう」と他者から提示されたものではない。そのように用意された目的は、やはり一時の幻想といえる。そうではなく、自分が作りたいものがまずあって、そのためにはどうしても釘を打たなければならないことが判明する。だから、釘の打ち方を勉強したい。そうなって初めて、その勉強に意味が浮上し、方法を学ぶことが「楽しい」ことに昇華される。すなわち、勉強が楽しくなるのは、そうすることで夢が叶うという目的が明確にある場合なのだ。


 つまり、「こうなりたい」「こういうことができるようになりたい」「何かを知りたい」という願望があれば、その手段としての勉強は辛いどころか、むしろ楽しいものになるということです。だから大人が自主的に参加するような勉強会やセミナーなどでは、講義中に居眠りをしたりボーっとしたりする人はいません。会社から命令されて嫌々参加している人は別ですが、ほとんどの人は明確な目的があって、その実現のために勉強しているので、「楽しい」のです。

目的を作る

 話を学生に戻しましょう。大人と違って、多くの子供たちは「こうなりたい」というはっきりした夢をまだ持っていません。このことについて、前出の森博嗣氏は述べています。

 学ぶための方法を教えているのが、義務教育だと言える。文章が読めなければ、自分で学ぼうと思った時に大きな困難が伴う。数字の計算ができないことも、自分の夢を実現する方法を試す時に障害となるだろう。基礎学力は、そういった意味で必要不可欠なものである。ただ、その学習は全然楽しいものではない。だが、のちのちの自分の可能性を高めるために、今やっておかなければいけない。厄介なことに、自分の可能性を理解するためには、二十年ぐらいの人生経験が必要である。夢を見るためには、最低限の基礎的なことを学ぶ必要がある。そうした上で、自分はこれがしたい、というものを見つける。それからが本当の勉強の始まりである。だから、それまでは騙されたと思って基礎的な勉強をやっておくしかない。子供たちには、はっきりと「楽しくないけれど我慢しなさい」と説得することが正しい。

 とても厳しい考え方ですが、決して間違ったことは言っていないように思います。「何のために勉強するのか」とよく子供は問いますが、将来何の勉強をするか分からないからこそ、今は基礎的な勉強をしなくてはならないのです。
 ただ、どうせやらなければいけない勉強ならば、ひたすら苦行のように歯を食いしばってやるよりも、少しでも楽しい気分で勉強できる方がいいでしょう。自分なりの小さな目標を作ったり、作業をゲーム化してみたりするなど、いろいろ工夫してみるといいと思います。将来、「楽しい」勉強ができるようになるために、今は目の前の勉強を一生懸命頑張りましょう。